
とてつもない演奏会でした。人生の中であの
ヴァント最後の来日公演に次ぐ演奏会だっと思います。ロシアの作曲家の曲をロシア人とロシアのオーケストラによる演奏で聴く純ロシア100%の演奏会。チャイコフスキーの後期交響曲3曲全曲というだけでもすごいのに、全てが超弩級の演奏で全ての曲で終わった後は放心状態でした。
ポリャンスキーのCDに聴く抑制が効いた演奏を予想していましたが、いい意味で期待を裏切られました。ダイナミクスレンジが広く、強奏ではまるでシベリアの大地の塊が隕石となって落ちてくるかの如くの衝撃です。一方弦の歌はじとっとしたいい意味で粘り気のある歌。この独特の歌がポリャンスキーです。
まず4番。過去独墺系の作曲家を偏重し、チャイコフスキーを一段低く見ていてその中でもこの曲を低く見ていた自分を恥じる演奏でした。この曲を聞いて呼吸が乱れ息苦しくなり、涙を流したのは初めてです。強奏は単なる物理的な音量だけではなく凄まじい人の意思のエネルギーを伴って聴き手に迫ります。
5番はさすがに4番を弾いた後でスタミナ切れかはじめ集中力が足りなかったですが、尻上がりに良くなり四楽章では震えが止まらないほどの壮演を聴かせてくれました。学生オケで初めて出た演奏会の記憶もよみがえり、涙が止まりませんでした。
6番「悲愴」はすごい。
「彼女が背負っているものは重いぞ。共に行くにはこの世界の重みを受ける覚悟がいる。それでも…」私の大好きなガンダムUCでカーディアスがバナージにユニコーン・ガンダムを託す時の言葉ですが、特に四楽章は正に世界の重みを背負ったような演奏でした。三楽章の弾き飛ばさず大地を踏みしめる壮絶な演奏は、基本CDと同様のスタイルですが迫真度が桁違いです。三楽章終わってからアタッカで入った四楽章は一転して深い慟哭の世界。
ポリャンスキーは感極まったのか、悲愴が終わってから一礼もせずに控室に引っ込んでしまいました。その後カーテンコールで何度も呼び出され、最後は八割方も残った聴衆によるスタンディングオベーション。
これだけの素晴らしい実力を持ったポリャンスキーにはまた来日してほしいです。
素晴らしい芸術・音楽に接し、生きている喜びを感じました。また前を向いて生きていこう。
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Brahms Symphony No.2
Eugen Jochum
Wiener Philharmoniker
Altus (ALT072/3)
「玉虫色」というと、日本人的な日和見主義の争い事を避けようとする曖昧な決断を揶揄し、あまりいい意味では使われませんが、実際の玉虫色はそれはそれは美しく、昆虫がこのような美しい翅を持つなど神様は粋なことをしてくれると感嘆します。五年程前に妻の実家に帰省し屋外プールで遊んでいたら、偶然玉虫が飛んできてその美しい姿を見せてくれました。

何十年かぶりに生きている玉虫を見ましたが、古代装飾品としてしばしば使われたのも納得の美しさでした。しばしその美しさに見とれ、その後あまりの神々しさに畏れ多くて野に放したのを覚えています。
さて、ウィーン・フィルは必ずしも一番好きなオーケストラではありませんが、やはりその響き、特に弦楽器の美しさには抗しがたいものがあります。それは「玉虫色」と呼ぶに相応しい響きではないでしょうか。単色ではなく、光の加減によって自在に七色に輝く。プライドが高く扱うのは難しいそうですが、はまったときは無二の演奏を聴かせてくれます。
ヨッフムにはEMIにロンドン・フィルと残したブラームスの全集がありますが、そちらはヨッフムらしい大らかさがあり、ドラマティックでカロリーも十分、語彙と句読点がはっきりした名演奏でした。そのヨッフムがベームの追悼演奏会として、ベームと共に歩んだウィーン・フィルを振ったのがこの演奏です。ヨッフムの大らかさとウィーン・フィルの美しい玉虫色の響きと繊細さ、そしてブラームスの「田園交響曲」とも呼ばれる牧歌的で明朗な曲の幸せな組み合わせです。
ヨッフムの大らかさをウィーン・フィルの繊細さが埋めているようです。全編において玉虫色の弦の美しさは特筆大書すべきでしょう。ヨッフムの揺らすテンポもウィーン・フィルが見事にアンサンブルを締めており、全てが堂に入ってヨッフムにありがちなやにっこさがありません。一楽章冒頭の低弦の歌い方からやはりウィーン・フィルです。その後ヴァイオリンがメロディを奏で始めると、本当に音がキラキラと七色に輝き始めます。特にその威力が発揮されるのは二楽章でしょう。粘るチェロの歌、続くヴァイオリンも夢見心地の美しさです。また三楽章の木管も最高に美しいです。
四楽章はヨッフムらしい勇壮な演奏です。コーダの低弦の強調は物凄く、初めてCDショップで視聴したときは鳥肌が立ち体が熱くなりました。
残念ながらヨッフムとウィーン・フィルの共演は少なく、録音も数えるほどしか残していません。この演奏を聴く限り、対照的な朴念仁とも言うべき職人肌のヨッフムと、気難しいが艶のあるウィーン・フィルは意外といいコンビなのかもしれません。
『HMV - ブラームス:交響曲第2番,モーツァルト:交響曲第41番『ジュピター』,フリーメイソンのための葬送音楽 ヨッフム&ウィーン・フィル(1981) : ブラームス(1833-1897)』
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Schubert String Quartet No.14 "Death and Maiden"
Verdi Quartett
hänssler (98.546)
「死と乙女」はかくも激しく演奏しなければならないという既成事実を作ったのは、かの有名なアルバンベルクSQの演奏ではないでしょうか。既存のシューベルトの概念を覆す激情的な演奏で、当時、弦楽四重奏はかくもダイナミックな演奏が出来るものだということを証明したエポックメイキング的演奏だったと思います。学生時代に先輩からすごい演奏だと薦められ、「死乙女=アルバンベルク」を刷り込まれました。当時はこれこそが究極と信じていました。
それから早20年。今となってはもう聴くことはありません。言葉はきついですが時に音の暴力にも感じられ、聴き通すのがしんどいのです。シューベルトの伝えたかったのはこのような音楽か?その疑問に答えてくれるのがこのヴェルディSQの演奏です。
全編に渡ってソットボーチェというべき
「静粛」が支配しています。一楽章の冒頭が淡々としていてその静けさたるや空恐ろしいほどであり、逆にこれが当時既に梅毒を発病していたシューベルトの絶望を伝えてやみません。ゆっくりした重いリズムと抑制された息の長い歌が、聴き手の心にじわじわと浸食します。
二楽章のチェロの第二変奏のが終わりパウゼの後、第三変奏の冒頭のフォルテ(6:51)もメゾフォルテくらいの音量で、決して叫びません。この楽章のクライマックスの第五変奏(11:07)でも同様です。騒がず慌てず歌を紡ぐ。それがゆえに胸に迫るものがあります。
典型的なのは三楽章の冒頭。アルバンベルクSQ鋭利な刃物のような刺す音でしたが、ヴェルディSQは抑えています。中間部の過剰に歌わない朴訥としてしみじみとした歌は他では得難いものがあります。
四楽章も決して流されず、弾き飛ばさずテヌート気味にひたすら静粛な歌を奏でます。しかし音は大きく激しくなくても音が叫んでおり聴き手の心を打ちます。
以上、アルバンベルクSQを貶めるような書き方をしましたが、あくまで音楽の趣味の変遷であり、また学生時代にはまだシューベルトの音楽に深く共感しておらず、自分の中でシューベルトの音楽像が固まっていなかったのもあるのかもしれません。
『HMV - 弦楽四重奏曲全集、弦楽五重奏曲、他 ヴェルディ四重奏団(8CD), CD, シューベルト(1797-1828), シューベルト』
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Beethoven String Quartet No.13
Grosse Fuge
Auryn Quartett
TACET (TACET38)
ブルックナーやシベリウスの音楽同様、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲は非常に壊れやすい音楽だと思うのです。不純に過剰に演出し、音のドラマで語ろうとした瞬間に音楽は口を閉ざし、ベートーヴェン最晩年の幽玄な精神世界への扉は閉ざされてしまいます。アルバンベルクSQなど現代を代表する弦楽四重奏団などがことごとく失敗し全滅しているのはこのためと思われます(実際アルバンベルクは実演もひどかった)。作曲家と曲への共感はさることながら、無私になり自然体で過剰な演出をしない。それが求められているのではないでしょうか。
ゲヴァントハウスSQの
ベートーヴェン弦楽四重奏曲第13番と
大フーガの名演に唯一比肩しうるのが同様に
現代最高の弦楽四重奏団の一つであるこのアウリンSQの旧盤です。ゲヴァントハウスSQの伝統に根差した古典的名演に対し、アウリンSQは現代的で対照的な演奏であるものの、この曲の真実に迫っています。残念ながら同じTACETから出ている新盤(TACET130)では、表現欲旺盛で過剰なデュナーミクが音楽を壊してしまっています。典型的なのが二、四楽章で、新盤では過剰な音楽の振幅が逆に音楽を矮小なものにしてしまっています。その点旧盤はダイナミックでありながら、音楽が壊れるぎりぎりまで攻めており、現代的表現でありながら最晩年のベートーヴェンの幽玄な精神世界を表現しています。かつアンサンブルの統一性も旧盤が上です。後期弦楽四重奏曲の中でも13番は比較的規模の大きいがゆえこのような現代的アプローチでも成功したと思いますが、同じ団体でも旧盤が成功しているのはここに最低限超えてはならない表現の「古典閾値」を守っているからではないでしょうか。もちろん、これらは優れた音楽性を持っている大前提の話ですが。
私の大好きな1st Vnのリンゲンフェルダーの音楽性は素晴らしく、五楽章カヴァティーナでの繊細な表情は彼ならではでしょう。こちらも新盤よりも成功しています。
力が抜けてより成功しているのはユーモアに富んだ新六楽章でしょう。自由に飛翔するベートーヴェンの魂に音の重しは必要ありません。
さて、問題の大フーガ。先日
ゲヴァントハウスSQの名盤を取り上げたばかりですが、この演奏も強固なアンサンブルによるフーガが「秩序の龍」を立ち昇らせています。この2団体の巨大で強固な宇宙法則に即した名演奏を聴いてしまうと、他が霞んでしまいます。
アウリンSQはどちらかというと
シューベルトのようなロマン派で適性を示しますが、ベートーヴェンのしかもこの深淵な名曲で名演奏を残してくれたのは幸いでした。
『HMV - 弦楽四重奏曲第13番、大フーガ アウリン四重奏団 : ベートーヴェン(1770-1827)』
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Beethoven Grosse Fuge
Gewandhaus Quartett
NCA (NCA60139)
この難解極まりないベートーヴェン最晩年の傑作の、これ以上考えられない名演奏です。この曲は本当に難しく、いくらプロとはいえアンサンブルが崩壊、または曲の真実に迫れていない演奏がほとんどです。その中、この
現代最高の弦楽四重奏団たるゲヴァントハウスSQはこの曲の謎を見事に解き明かして真実を白日の下にさらしています。
ゲヴァントハウスSQは全体を通して基本インテンポで、中庸なテンポで音も大変格調高く、終始音が荒れずかつ表現欲がはみ出て秩序を壊すことが一切ありません。少しでもはみ出るとその瞬間にこの曲は崩壊します。
強固なフーガも素晴らしいですが、(4:45)からの静かな曲調での彼岸の美しさなど、この団体ならではでエルベンの音の美しさが光ります。
究極なのが二つ目のフーガのクライマックス(9:35)。ミクロに見ると混沌がそれぞれ渦巻いているが、マクロに見るとそれらは一片の鱗に過ぎず、その鱗が重なり合って秩序を織り成し巨大な龍となって立ち昇っていく。混沌の鱗が集まり、やがて秩序の龍が立ち昇っていく様はまさに圧巻です。これこそがこの曲の真実。一見混沌としている数々の物理現象の背後にある宇宙を支配する法則こそこの曲の真実です。ベートーヴェンはたった4丁の弦楽器で管弦楽を上回る巨大な宇宙を創り出してしまった!
この曲を弦楽四重奏曲第13番の終楽章に置いてもいいですが、枠にはまらないほどあまりに大きすぎるので、この曲は単体で聴きたいです。それにしてもこんな恐ろしい曲を書いてしまうベートーヴェンが晩年見ていた世界はどのようなものだったのでしょうか。やはりどう考えても既に魂は肉体を離れ、神に近しい存在になっていたとしか思えません。
『HMV - 弦楽四重奏曲全集 ゲヴァントハウス四重奏団(10CD)【CD】-ベートーヴェン/音楽/HMV』
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Beethoven Symphony No.3 "Eroica"
Günter Wand
Deutsches Symphonie-Orchester Berlin
Profil (PH09060)
エロイカは最近紹介した中では
若杉、
シュタイン、
ジュリーニのような広がりがある雄大な演奏を好みます。昔は音のドラマを追及し
フルトヴェングラーや
フリッチャイのような劇的な演奏を特に好みましたが、最近は加齢のためかあまりこのような激しい演奏はしんどくなってきました。この演奏はその対極にあるヴァントならではの凝縮した切れ味抜群の演奏です。しかも終始高い緊張感を維持して畳掛けていきます。その様はまるで妖刀とも呼ばれた名刀村正を持った侍が切り込んで行くようです。ライブだからかスタジオ録音のヴァントとは別人のようなまるでムラヴィンスキーを彷彿とさせる非常に凝縮度が高い演奏を繰り広げています。
特に一楽章でその剣さばきが炸裂します。一楽章冒頭の二音から凄い切れ味です。そして速いテンポと高い緊張感を維持しながらどんどん切り込んで行きます。ライブとはいえここまで荒ぶるヴァントは珍しいのではないでしょうか。展開部クライマックス(8:00)からの金管の雄叫びと弦の切り込みは壮絶です。コーダの爆発も物凄く、これでもかとトランペットを強奏させます。件の最後クライマックスでの主題行方不明はいつものヴァントです。
二楽章は曲想もあって他の楽章よりテンションは普通ですが、せかせかして音楽が矮小になることは決してありません。むしろフォルテでのティンパニの強奏を軸とした力強さは物凄いです。特にフーガは壮絶です。
三楽章フォルテからの推進力は物凄く、まるで騎馬隊の突進のようです。
四楽章のコーダも凄い。ティンパニをボコボコ強奏して最後を締めくくります。演奏後の盛大な拍手も納得。
毎回聴くのはしんどいですが、元々曲自体に広がりがあるので許容できます。たまにはこのような演奏も聴きたくなりますね。でもこの記事を書くために久しぶりに聴きましたが、しばらくお休みです(笑)。
『HMV - ヴァント&ベルリン・ドイツ交響楽団ライヴ集成ボックス(8CD)』
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Beethoven Symphony No.3 "Eroica"
Carlo Maria Giulini
Wiener Philharmoniker
Altus (ALT220/1)
美智子皇后陛下は気安く語るのが憚れるほど、畏敬の念を持っています。ただ美しいだけでなく、親しみやすさの中に芯のある気高い気品に溢れており、あの深みのある笑顔はいったいどうやったら出るのかと感嘆させられます。戦後苦しい時代に、同じ目線で国民に寄り添われた生き様そのものが現れています。人の内面はかくも外面に現れるものだと。
この演奏は「プリンセス・ミチコ」と呼ぶに相応しい気高い気品を湛えた演奏です。野蛮な戦いによって勝ち取られた支配的な英雄ではなく、長く国民を想い寄り添うことにより醸成された気高い気品を湛えた等身大の英雄なのです。ジュリーニの歌は決してなよなよしたものではなくいつも中心に揺るぎない芯があります。そのジュリーニがウィーン・フィルという気品ある名器を得て、美しく気高い無二の英雄を奏でます。
どこをとっても弦楽器の歌の美しさは特筆すべきものがあり、特に雄大な一楽章は曲想からしてその最たるものです。一楽章冒頭のチェロのテーマから異次元の美しさです。ここまで緻密に徹底的に歌っていながら決して神経質にならず、雄大さも兼ね備え音楽が広がっていきます。一方、音楽が盛り上がっても決して威圧的にならない。ここにジュリーニと皇后美智子さまの親しみやすい謙虚さが被ります。一楽章は繰り返しを行っていますが、このような演奏であれば何度でも繰り返して欲しいと思わずにいられません。再現部のテーマが戻ってきてから(13:15)からのヴァイオリンの美しさなど眩暈を覚えるほどです。
四楽章フーガの後の震えるヴィブラートで入ってくるヴァイオリンの調べ(7:34)、その後の木管の歌は美しく、そして雄大なウィンナ・ホルンは物足りなさは皆無です。そして件のコーダは英雄らしく力強く曲を閉じます。
最近仕事で驕りと慢心が原因で大きな失敗した私にとって、この演奏は別の意味でも心に刺さり、気持ちを新たにさせられたのです。
『HMV - 交響曲第3番『英雄』、第4番 ジュリーニ&ウィーン・フィル(2CD) : ベートーヴェン(1770-1827)』
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